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【諏訪神社の由来】2024年7月31日改訂
8月1日(木曜日)宵宮祭
8月2日(金曜日)例大祭 午後3時から
恒例だった8月1日の自治会お祭りは8月31日4時からになりました。訂正;雨のため9月7日に延期になりました。
- 御成町の諏訪神社は鎌倉検定公式ブックにも掲載されていない小さな無名の神社ですが、実は非常に由緒ある神社であることがわかってきました。
現在、諏訪大社を本宮とした諏訪神社は全国に数千とも数万社(やしろ)※(1)とも言われています。 - 鎌倉時代に諏訪大社の神官(大祝)でもあった諏訪重盛が奉遷したのが、この御成町の諏訪神社と言われています。 当時はかなり大きな神社だったと思われます。
- ※(1)諏訪大社は、長野県の諏訪湖周辺4か所にある神社で正式名称は信濃国一之宮諏訪大社。神紋は「梶の葉」です。 4社は上社前宮・上社本宮・下社秋宮・下社春宮からなり
- 全国諏訪神社の総本社です。 諏訪神社と名乗る社は全国にあり、その総数は約1万社とも約25,000社(Wikipedia)とも言われています。
珍しい御成町諏訪神社の神紋
「諏訪の神さまに会いに行く」北沢房子著から引用・・・本書P106要約御成町諏訪神社の神紋は、大社の梶の葉紋とはちょっと違う変形バージョンでした。何が違うかというと、三本の枝に矢羽根がついて、3本の矢のようにも 見えるのです。これが、平安後期から鎌倉初期の下社大祝で、弓の名手として知られた 金刺盛澄にちなんでいるとの説がありました。金刺盛澄は、諏訪下社秋宮の南東に接する霞ヶ城跡に、馬上で弓を射る銅像が立っている下社系のスター大祝です。
歴史『吾妻鏡』に3本の矢につながる逸話が載っていました。 下記『吾妻鏡』には、諏訪大 夫盛澄として出てきました。
『盛澄は、藤原秀郷の弓術を伝える流鏑馬の達人だった。頼朝は、盛澄を死 罪にすると流鏑馬の一つの流派が断絶してしまうと悩んでいたので、召し出 して流鏑馬を射るよう命じた。盛澄は厩第一の悪馬を与えられたが、見事 に全ての的を射た。次に五寸(約15センチ)の串に挟んだ小さな土器が三 本立てられ、これもことごとく的中。次にその三本の串を射るよう命じられ た盛澄は、もはやこれまでと思ったが、 諏訪大明神に祈念して射たところ、 三本の串すべてを射切った。見る者皆感動し、たちまち罪を許された。』※要約
鎌倉幕府滅亡時に、執権北条氏嫡流の遺児を匿って名 を挙げたのは上社系の諏訪氏でしたが、初期の鎌倉で名を馳せていたのは、下社系でした。
最新版「諏訪の神さまに会いに行く」北沢房子著作
諏訪神社に関する新刊が出ました。 「鎌倉の巻」では53ページにわたり御成町諏訪神社が紹介されています。
「諏訪の神さまに会いに行く」北沢房子著作そもそも諏訪信仰はどうして広まったのかー。信仰の形を変え意味を変えながらも、それでも脈々と受け継がれてきた日本の神社の謎に迫る。古そうな由緒と現在の姿を追った体当たりの歴史紀行。
書店・Amazonなどで販売中。
【鎌倉の巻】P105~P158
「神の威光より武士の意向」
1下社と上社の処世術/諏訪地、諏訪屋敷、諏訪の森/弓馬の達人、諏訪盛澄とは何者か/上社大祝家は世渡り上手
2政権に食い込むご奉公/現人神が警備員/信じていたのは神か仏か/鎌倉の諏訪氏は滅んだのか
- 1333年、鎌倉幕府滅亡。
- 教科書では1333年に最後の執権北条高時が自害、鎌倉幕府が滅亡とされていますが、実は、生き残った唯一の嫡子である時行が諏訪一族に助けられ諏訪大社に逃れます。その後、時行は鎌倉に3度攻め入り鎌倉を奪還しますが、3日天下で終わります。 北条時行と諏訪一族は大きな相手に何度も挑む姿は、まるで諏訪の祭神である建御名方神を彷彿させます
- 国内あまたある神社の中で諏訪神社系は独特の起源を保っています。
- 氷河期が終わり、地球を覆ってた氷河が溶けて海面が上昇しました。
- 関東平野の一部が水没して住めなくなった縄文人たちは、道ができた糸魚川ー静岡構造線(フォッサマグナ)に沿って豊かな諏訪の地を目指しました。※(縄文海進)
もう一つの目的は、当時、最高品質の黒耀石を手にいれるためでした。 - 多くの縄文人が集まり、諏訪の地で信仰が自然発生しました。縄文時代が色濃く残る肉食や狩りや独特な信仰が形成されました。
- 諏訪大社のトップであった神官の諏訪重盛が、鎌倉幕府の要望で今の鎌倉市御成町付近に屋敷をかまえました。邸内に祀ったのが諏訪神社です。
- 関東で最初の正式な諏訪神社と思われます。場所は今の御成小学校(御用邸跡地)です。
推測ですが今よりももっと大きな神社だった可能性があります。
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詳しくは... 下記からダウンロードできます
御成町諏訪神社のData・・・Download
- 諏訪神社の境内には、特徴的な形をした狛犬があります 口の中が赤い狛犬は、朱塗りと呼ばれる赤い色で塗られていることが多いです。 朱塗りは、魔除けや厄除けの効果があるとされており、神社や寺院の建物や 神具などにも用いられています。
- 朱塗りは、日本古来の伝統色であり、日本人にとって親しみやすく目立つ色でもあります。 口の中が赤い狛犬は、阿形(あぎょう)と呼ばれる口を開けた方の狛犬であることが多いです。
- 阿形は、「あ」の字に似ていることから名付けられており、吐く息や発声を表しています。阿形は、邪気や災厄を吐き出して神域を清める役割を持っているとされています。 口の中が赤い狛犬は、玉をくわえていることがあります。
- 玉は、宝珠(ほうじゅ)と呼ばれる仏教の象徴的な宝物であり、願い事が叶う力や無限の知恵や慈悲を持つ力を表しています。玉をくわえた狛犬は、福徳や幸運を招き入れる役割を持っているとされています。以上のことから、口の中が赤い神社の狛犬は、魔除けや厄除け、邪気払いや福徳招来などの意味を持っていることがわかります。
「逃げ上手の若君」全9巻
最後の執権北条高時の嫡子、北条時行と諏訪大社神官である諏訪頼重の物語。「逃げ上手の若君」公式サイト
https://nigewaka.run/ 全9巻
今年TVで放映予定。人気があります。
「諏訪の神様が気になるの」
◎諏訪の神についてわかりやすく丁寧に調べています。
人気の書籍で重版しています。
各書店やAmazonで販売しています。
北沢房子著 信濃毎日新聞 定価1600円+税
今年3月頃に続編「諏訪の神さまに会いに行く」が出版されました。そこで御成町の諏訪神社が詳しく紹介されます。
- 〔市役所が移転する前の諏訪ノ森と諏訪の池〕
〔昭和38年頃の諏訪の池、今は鎌倉市役所の駐車場>
[諏訪神社の鳥居・奥に家は鎌倉彫のビルになっている]
〔奥に昔の御成中学校が見える〕
[奥に諏訪池を周回する道が見える]
〔約65年前?当時の諏訪神社*鎌倉市中央図書館所蔵・掲載許可済〕
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